「魔の山」 トーマス・マン作 高橋義孝訳 (新潮文庫)
上巻が700ページあって驚きましたが、下巻はなんと800ページ!
さすが、魔の山。この山を登るのは、恐ろしい作業です。
ところで、ハンス・カストルプは、この魔の山に7年滞在するはずです。
にもかかわらず、上巻が終わった所でまだ半年。
いったい、7年分をどのように物語るのか。
もしかして、未完で終わるのだろうか。
いえいえ、そんなことはなくて、このバランスの悪さは意図的だったのです。
この物語は、「時間の小説」でもあるのだそうです。(下巻P404~P405)
「時間とは何か。これは一個の謎である」。
そう、時間の流れは均等ですが、記憶に残る時間は実に不均等です。
さて、上巻で活躍(?)したセテムブリーニは、下巻でも絶好調。
論客として新たに、ナフタというイエズス会士を迎え、語る語る。
生と死、健康と病気、人と神、肉体と精神、政治と宗教、理性と信仰・・・
話題は尽きない。が、私はついていけない。
二人の議論はややこしい。
しかも、二人は病んでいる。
「病気はきわめて人間的だ。」と断じるナフタ。
「なぜなら、人間であることは病気であることだから。」(P241)と。
二人の議論は真剣そのもの。
でも、真剣になればなるほど、どこか滑稽なのです。
ひょっとしたら、結局みんな、ただの「たわごと」なんじゃなかろうか。
病んだ人間による、壮大な「たわごと」なんじゃなかろうか。と、ふと思う。
そして、些細なことでふたりは・・・
この結末は、悲劇というか、茶番というか・・・
ほかにも、魅力ある人物が目白押し。ショーシャ夫人とペーペルコルン。
ベーレンス顧問官とクロコフスキー医師・・・みな、忘れられません。
さて、「ブッデンブローク」は、三代にわたる年月が、綿密に描かれていました。
それに比べて「魔の山」は、まとまりがないです。
では、「魔の山」が「ブッデンブローク」に劣るかというと、全くそんなことはない。
「魔の山」のまとまりのなさもまた、綿密な計算があってのことだと思います。
ばかばかしいおしゃべり、意図の分からない脱線・・・
そういう部分も含めて、強烈な印象が残りました。
時間を置いて、もう一度じっくり味わいたい作品です。
余談ですが、マンは夫人をダボスに見舞ったとき、この小説を思いついたそうです。
最初、短編のつもりが、結局12年の月日を費やし、この壮大な物語となったのです。
さいごに。(気難しくなった娘)
うちの娘は最近、私が品のない冗談を言うと、本気で怒るようになりました。
少し前までは、一緒に喜んでくれていたのですが。
そういう気難しい年頃に、なってきたのでしょうか。