「スプートニクの恋人」 村上春樹 (講談社文庫)
(今回の記事はネタバレが多いです)
あちらの世界に迷い込んだ「すみれ」と、彼女を探し求める「ぼく」の物語です。
1999年に出た9作目の長編小説で、文体の総決算として書かれました。
2001年に講談社文庫に入りました。
その頃一度読みました。今回再読しましたが、内容をほとんど忘れていました。
すみれは22歳の春に、初めて恋に落ちました。それはとても激しい恋でした。
相手はミュウといって、17歳も年上で、結婚していて、しかも女性でした。
この恋はわたしをどこかに運び去ろうとしている、どこか特別な世界へ。
そう予感しながらも、すみれはミュウから身を引くことができません。
あるとき、ミュウがすみれに言いました。
「今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。」
14年前に、ミュウには何があったのか?
半分になってしまったというのは、どういうことか?
その夏、「ぼく」のところに、ミュウから国際電話が入りました。
「ぼく」はギリシャの小島に飛び、すみれが失踪したことを知りました。
すみれに、何があったのか? どこへ行ったのか?
最後の場面、すみれは帰って来たのだろうか・・・
「スプートニク」とは、ロシアの人工衛星の名前です。意味は「旅の連れ」。
そして今も、この真っ暗な宇宙空間のどこかを、ひとりさまよい漂っています。
すみれはミュウを「スプートニクの恋人」と呼びます。
すみれもミュウも「ぼく」も、スプートニクのようにどこにもたどり着けません。
「わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独
な金属の塊に過ぎなかった・・・」(P179)
さて、私は個人的に、語り手の「ぼく」に共感できませんでした。
彼は、成り行きから小学校教員になり、自分が何をしたいのかも分かっていない。
すみれの代わりに他の女で欲望を満たし、今は児童の保護者と不倫をしている。
そのくせ、すみれには何かと偉そうで気取ったことを言っています。
「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている」とか言って。
フィクションの中に閉じこもっているから、お前はダメなんだ、と言ってやりたい。
しかし一方で、そういう男だからこそ、あちら側に入りかけたのだとも言えます。
あちら側とは、すみれやミュウが作りだしたフィクションの世界のようだから。
最後の場面ですみれが帰ってきたのかどうか、いろいろと論議されているようです。
ちなみに私には、この場面もまた、「ぼく」のフィクションとしか思えません。
余談ですが、この作品を読んでいて、プラトンの「饗宴」を思い出しました。
人間は自分の半身を求めているのだ、それが愛なのだ・・・
それから、ルナールの「にんじん」も読んでおかなければと思いました。
さいごに。(日本のリレーに感動)
家族旅行の間に、4×100mリレーの決勝がおこなわれました。
家に帰って録画を見て、世間から3日ほど遅れて、感動を味わっています。
今回のメンバーはスゴイと思っていましたが、まさかアメリカを抑えて銀とは!
しかも38秒60という驚異的な記録! 本当にスゴイ。
(今回の記事はネタバレが多いです)
あちらの世界に迷い込んだ「すみれ」と、彼女を探し求める「ぼく」の物語です。
1999年に出た9作目の長編小説で、文体の総決算として書かれました。
2001年に講談社文庫に入りました。
その頃一度読みました。今回再読しましたが、内容をほとんど忘れていました。
すみれは22歳の春に、初めて恋に落ちました。それはとても激しい恋でした。
相手はミュウといって、17歳も年上で、結婚していて、しかも女性でした。
この恋はわたしをどこかに運び去ろうとしている、どこか特別な世界へ。
そう予感しながらも、すみれはミュウから身を引くことができません。
あるとき、ミュウがすみれに言いました。
「今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。」
14年前に、ミュウには何があったのか?
半分になってしまったというのは、どういうことか?
その夏、「ぼく」のところに、ミュウから国際電話が入りました。
「ぼく」はギリシャの小島に飛び、すみれが失踪したことを知りました。
すみれに、何があったのか? どこへ行ったのか?
最後の場面、すみれは帰って来たのだろうか・・・
「スプートニク」とは、ロシアの人工衛星の名前です。意味は「旅の連れ」。
そして今も、この真っ暗な宇宙空間のどこかを、ひとりさまよい漂っています。
すみれはミュウを「スプートニクの恋人」と呼びます。
すみれもミュウも「ぼく」も、スプートニクのようにどこにもたどり着けません。
「わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独
な金属の塊に過ぎなかった・・・」(P179)
さて、私は個人的に、語り手の「ぼく」に共感できませんでした。
彼は、成り行きから小学校教員になり、自分が何をしたいのかも分かっていない。
すみれの代わりに他の女で欲望を満たし、今は児童の保護者と不倫をしている。
そのくせ、すみれには何かと偉そうで気取ったことを言っています。
「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている」とか言って。
フィクションの中に閉じこもっているから、お前はダメなんだ、と言ってやりたい。
しかし一方で、そういう男だからこそ、あちら側に入りかけたのだとも言えます。
あちら側とは、すみれやミュウが作りだしたフィクションの世界のようだから。
最後の場面ですみれが帰ってきたのかどうか、いろいろと論議されているようです。
ちなみに私には、この場面もまた、「ぼく」のフィクションとしか思えません。
余談ですが、この作品を読んでいて、プラトンの「饗宴」を思い出しました。
人間は自分の半身を求めているのだ、それが愛なのだ・・・
それから、ルナールの「にんじん」も読んでおかなければと思いました。
さいごに。(日本のリレーに感動)
家族旅行の間に、4×100mリレーの決勝がおこなわれました。
家に帰って録画を見て、世間から3日ほど遅れて、感動を味わっています。
今回のメンバーはスゴイと思っていましたが、まさかアメリカを抑えて銀とは!
しかも38秒60という驚異的な記録! 本当にスゴイ。